社 名/株式会社普宗企画 遠州屋葬儀社
創業/大正10年
所在地/東京都渋谷区富ヶ谷1-14-13
加盟団体/全日本葬祭業協同組合連合会加盟
    /山手葬祭業協同組合加盟
▲現在の社屋
左写真は昭和30年頃の社屋。電話番号の桁が少ないのが当時を偲ばせます。ご近所には忠犬ハチ公が住んでいたそうです。

地図

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 初代は豊泉吉太郎、麻布は市兵衛町の遠州屋葬儀社にて修行ののち、「のれん分け」にて大正10年に現在の渋谷・代々木八幡の地に創業。ニ代目は豊泉文吉。初代よりその後を継承し、現代表者である三代目の豊泉普文(ひろふみ)へと続いております。
 大正10年より現在まで地域の皆さまへのご奉仕と感謝の気持ちをもって、人生最後の旅立ちのお手伝いをさせていただいております。
 

 この世に生を受けて、また、来世への旅立ちをされる故人。 そのために私たちにできることとは、いったい何でしょうか……。
故人を偲び訪れる、たくさんの会葬者のお世話をして、ご遺族が心労を重ねたり、肉体的な負担を強いられるのが、葬儀の基本形ではあってはなりません。

 大切な人を失った哀しみや、看病の疲れからご遺族自身が癒され、故人の新たな旅立ちをお見送りする。
 そのようなお別れは、誰よりもご家族を愛していた故人だからこそ望まれるかたちではないでしょうか……。
 私たちは心のこもった葬儀で、故人とご遺族が、ともに真に癒され、穏やかな心へと解放されることを願っています。
 

 私どもの会社は、富ヶ谷一丁目商店街の一角にあります。社屋の東側には渋谷と代々木八幡駅前を南北に結ぶ遊歩道が通っており、地下には唱歌「春の小川」のモデルになった河骨川(こうほねがわ)という小川が流れています。

 さて、葬儀社はその昔は葬祭にかかわるさまざまな物品の提供や貸し出しを行うことから始まったといわれておりまして、時代とともにその役割を変えてきたもののようです。古くは、本来の業務のない日には、花環を手作りで作ったり、祭壇の修理を自らの手で行ったり、足りなくなってきた棺の製作をしたりと、手作業の多い職人であることが求められていたようです。

 昭和になりますと、私どものような葬儀社では、主に近隣の住民の皆さまや、商店街の方々に葬儀の物品の手配や、式場の手配と準備、葬儀の段取りの組み立てや各担当者や役所申請の代行、宗教者の方とのお打ち合わせなどを主な役割としてお手伝いをしてまいりました。

 私の前の代くらい、昭和の30年から昭和の終わり頃でしょうか、その頃には、まだ、町内会・商店会やお祭りの会などが町の仕切りの中心となっていました。そういった時代にはほとんどの場合に「葬儀委員長」という葬儀を取り仕切ってくださる方がおられました。

 しかし、時の流れか、現在では商店街も世代交代で引越されたり、跡継ぎの方が会社に勤めておられることが多くなりました。それとともに進行・打合せも葬家と私どもで行われることがほとんどとなってまいりました。

 また、現在ではなるべく身内のかたで行いたいというご希望が多くなりました。
 物品の手配や、人手の確保といったことよりも、残されたご遺族の希望にあわせて、細やかで心あたたかな葬儀をいかに提案できるかが、現在ではこのお仕事の要となっております。

「お願いして恥をかかずに済んだ」
 はごもっともなご意見とは考えますが、また一方で
「お願いしてきっと故人も喜んでいる。私たちもこころから満足できた」
 と思っていただけるようなお手伝いができれば、これ以上のことはないのではないかと考えています。

  大切な方との限られたお別れの時間を大切にしていただくためにも、家族らしい葬儀のかたちやご自分の葬儀のありかたなどを、常日頃からお考えいただきたいと思います。

 残念なことですが、いざというときには考える間もないほど時間に追われてしまうものです。

 古くは、野辺送りといいまして、故人を土葬にするために村はずれの墓地まで故人と所縁のあった友人や仕事仲間、親戚などで棺を担いで葬列を組んで送ったもののようです。

 その野辺送りを現在では自動車で行うために、その棺を納めた輿(こし)を象った車が霊柩車として使用されるようになりました。

  また、葬儀などで飾られる祭壇の須弥壇などはお釈迦様のお住まいになる須弥山(しゅみせん)を模した紋様で輿を飾ったものと思います。今も本輿、半輿などと呼ぶことがありまして、本輿になりますとなかなかの大きさになります。
50年くらい前に行われた合同葬儀の準備風景です。この当時の花祭壇は、珍しいものだったようです。
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